Mission・Vision

Mission

「教育」で多様性を活かす

Vision

生きがいと働きがいに満ちた社会をつくる


特別支援学校の教え子、Tatsuhikoくんが描いてくれたイラストです。

なぜ障害者雇用コンサルタントを?

代表である私自身のこれまでについてお話をさせてもらいます。

目指すこと

「生きがいと働きがいに満ちた社会」


わたしが目指していることであり、叶えたいことでもあります。

人生100年時代と言われていますが、これからは70歳過ぎても普通に働く世の中になっていくのではないでしょうか。
20歳から社会人になることを考えても、人生の半分以上は働いていることになります。
「生きること」は「働くこと」とほぼ同義であり、「生きがい」とは「働きがい」だとも思います。

では、日本において「いきいき働く」ことができている人ってどれくらいいるのでしょうか。

決してその数は多くないはずです。きっとみんなが「いきいき働く」ことを願いながら、そこにはさまざまな障壁が横たわっているのだと思います。

私は「生きがい」と「働きがい」を感じられる社会づくりに「教育」で貢献したいと考えています。

小さい頃の夢

人は「教育」で変わる

「社会づくりに教育で貢献したい」と大仰なことを口にしました。
「教育」の定義はさまざまあるのですが、私は「夢や目標に向けて自己の変化を促す知識活動」だと考えています。
とは言え、「教育」を語れるほど、私がもともと勉強が得意だったわけでも、志が高かったわけでもありません。勉強は苦手でした。そんな私がなぜ「教育」を志すようになったのかについて、お話しさせてください。

小学生時代の私は、空手に明け暮れる少年でした。生まれつき体が小さくて弱かった私は「強さ」に人一倍憧れていました。たまたま近所にあった空手道場に通い始めてから、どっぷりと空手にはまり、強くなるのが楽しくて、当時はちょっと(だいぶ?)やんちゃな男の子だったように記憶しています。

中学生時代はめっきり勉強から思い切り遠ざかり、生まれ育った広島市内から逃げるように、県北の山間にある高校へ進学しました。

高校時代は寮生活を送っていました。その寮がとても厳しく、門限は18:30。
19:30~23:45まで「静習」と呼ばれる強制的な勉強時間でした。

門限を破ったり勉強時間をさぼったりしたものなら「正座」が待っていました。私たち寮生は、強制的に勉強するしかない環境でした。

それまで1時間も続けて勉強した経験がなかったのに、毎日4時間机に向かうのは苦痛以外のなにものでもありませんでした。

しかし習慣化とはすごいもので、「勉強でもしてやるか」くらいの寮生活に抗う気持ちで教科書を開いていたのが、いつの間にか苦もなく4時間の学習を続けられるようになりました。

学びによって成長していく自分が楽しく、「出来の悪い自分でも、きちんと学べば変わっていける」というのを誰かに伝えたい気持ちが高まり、教師を志したのです。

浪人をしましたが、教育学部(小学校教員養成課程)に進学し、「教師」に向けた確かな一歩を踏み出したのでした。私自身が学びによって大きく変わっていくことができ、言い換えるならば「教育によって成長できた」3年間でした。

小学校教員
時代

謙虚に学ぶ

小学校教員を務めていた間は3つの学校で、のべ9年間を過ごさせてもらいました。

憧れの教員生活は、大変なこともたくさんありましたが、若く、エネルギーもありましたし、生活の全ての時間を思い切り教育に注げる貴重な経験もさせてもらいました。

教師は子供たちに勉強だけを教えればいいわけではありません。いかに子供たちといい関係を作り、親御さんたちの協力を得ていくかが重要となる、難しい仕事です。

その関係作りに頭を悩ませたり、親御さんの理解を得ることに苦労したりしていましたが、周囲の先輩たちに恵まれたおかげで、充実した教員生活を送らせてもらいました。

私は先輩たちから3つの印象的な言葉をいただきました。

1つ目は「人に教える以上に自分が謙虚に学べ」ということ。

2つ目は「人の努力を報いてあげられる存在であれ」ということ。

3つ目は「『ごめんなさい』が言える指導者になれ」ということ。

これらは、「教育」について考え直させられた非常に刺さる言葉でした。
特に「いつまでの謙虚に学び続けること」は今も胸に刻んでいることです。

先輩先生方含め、教え子や親御さんたちには本当に感謝しています。

特別支援学校
教員時代

相手に合わせた教育をできるのが、プロ

都内の有名サロンでトップスタイリストとして活躍していた妻の「地元で独立したい」という夢に共感して、私は縁もゆかりもない埼玉県熊谷市に引っ越してきました。

それと同時に着任したのが特別支援学校でした。

まさに青天の霹靂でした。小学校教員としてキャリアを築いていた私が、特別支援学校に着任するとは夢にも思っていなかったからです。しかしこれが「障害者雇用」に携わるきっかけになるとは、人生わからないものです。

着任当初、10年近く培った指導スキルが通用せず、非常に戸惑いました。障害のある子たちとの関わりはゼロではなかったものの、やはり私には未知なる領域でした。

当時の私は、蓄えてきた知見を捨てきれず、これまでのやり方を貫き通そうとしていました。

しかし全く上手くいきません。それはそうです。教える相手が変わったのに、指導者である私が、教え方を変えることを怠っていたのです。

その時、かつて先輩からもらった「謙虚に学ぶ」という言葉を思い出し、教員10年目にして新人の気持ちでゼロから学び直しました。若手教員にも教えを乞いました。(あとで知りましたが、これは人材開発の領域で語られる「アンラーニング(学習棄却/学びほぐし)」でした)

わずかながら子供たちの成長を感じられるようになる中で、私は「教育」の力を改めて感じることができたのでした。

この時の経験は、現在の仕事に対する基本姿勢である、「現場の声に耳を傾けた「共感性」」につながっていると思います。

相手は何に困っているのか。問題にはどういう背景があるのか。その場で何が起こっているのか。主観は一旦脇に置き、相手の本音を理解するまでじっくりと目や耳といった五感で「場の理解」に努めることが解決への糸口になる。

「相手に合わせた仕事の仕方」が大切だと、障害のある子供たちから教わったのです。

生きることを考えらさせられた

あの子はたくさん笑えただろうか

特別支援学校での経験は、教育者の端くれだった私が「教育」について考え直すきっかけをもらえた、重要なトランジションでした。

一方で、とてもつらい経験もありました。小学校教員時代は1度も経験したことはなかったのですが、特別支援学校では時に子供が亡くなられることがありました。私も2児の父親ですので、親御さんの気持ちを思うと胸が張り裂けそうになります。本当にやりきれない思いです。

私はふと「あの子は、生きてる間にたくさん笑えただろうか」と思いました。

冒頭で述べた人生100年時代と比べると、あまりに短い一生の中で、どれくらい”生きる幸せ”を感じられたか。私たち教員がどれくらい生きることへの喜びを伝えられたか。そう考えるといても立ってもいられなくなりました。

私は「たくさん笑うこと」こそが「生きること」を感じる瞬間なのではと思い、学校生活のいたるところでたくさんの仕掛けをしたものでした。

こうして、障害のある子供たちとの日々で、「生きること」について立ち止まって悩みながら深く考えさせてもらったのでした。

続きは次ページでお伝えします。

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