【大学院での学び日記3】”フツー”の壁

「性の多様性」がテーマの授業でした。
その中で「”フツー(普通)”と言える側の特権」というお話が印象的でした。

・少数派をラベリングし、自分は”フツー”の壁の中にいることに気づかない。
・”フツー”な自分が、それ以外の”フツーじゃない人(マイノリティ)”を「理解してあげる私たち/理解してもらうあの人たち」という構図。
・”フツー”も「多様性」の一部。 その壁に気づけるか、”フツー”の壁をいかに取っ払えるかで、包摂性は変わる。

といった議論です。(ちょっと記憶違いな部分があるかも知れず、ご了承ください)

僕らも必ず一度は「なにやっとん?フツーはこんなやり方はせんでしょ」みたいな言い方で、自分の行動を咎められたり指摘されたりして「イラッ」としたことがあるはずです。
「フツー」という便利な言葉は、使いやすく、受け取りにくい言葉なのでしょう。

フツーが好きな僕ら

僕たちは「フツー」という言葉の中に入ろうとします。幼少期から「フツー」を教えられ、「フツー」の輪郭が実はよくわかっていない中で「フツー」を目指し、「フツー」でいることに安心感を得てきました。

「フツー」とは、相対的な位置付けであり、価値づけでもあります。
自分たちが「フツー」でいるためには、「フツーじゃない人たち」を作らないといけません。そして、男性・大卒・健常者・日本人、、、といったマジョリティ側は「フツー」になりやすいという特権をもっています。

障害者雇用でもあるあるな構図

障害者雇用においても同じ構図があります。

「障害者がうちの部署に来ることになると、いろんな負担がかかる」

こういった言葉にも、「私たち/あの人たち」の意識が見え隠れしています。

でも、高齢者になると、皆の等しく、身体的な機能が低下します。「フツー」を求めて60年、70年生きてきた人が、「フツー」でなくなる自分を、どう受け入れるのでしょうか。

だからこそ、「フツー」の壁に気づくことが必要なんでしょうね。

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