触れると温かく、叩くと冷たい
僕に「教える」を教えてくれた師が、かつて身をもって伝えてくれたことがあります。
ある時、ふと僕の背中を手で触れました。
その後「俺の背中にも、同じように手を置いてみて」と言いました。
なんのこっちゃよくわからず、僕は師の背中を右手で触れました。
側から見ると「背中の痒い2人の中年男性」に見えたことでしょう。
僕に背中を触れさせたまま、師はこう言いました。
「君の右手が俺の背中に触れているのか、俺の背中が君の右手に触れているのか、どっちだと思う?」
と問うてきました。
「What?」
日本語しか話せない僕が思わず英語で答えてしまうほど、問いの意味を理解できませんでした。
「何が言いたいかわかる?」
「いえ、迷宮入りするほどわかりません」
「『背中に触れる』だけでも、押したり受け止めたり支えたり、温かさや硬さや柔らかさを感じたり、いろんな感覚があるよね。人と関わると、「間」に色んな感覚が生まれるんだ。自分の感覚でしかその「間」を捉えようとしてないのは、実はその人と関わっているとは言わないんだよ。君ならわかるよね?」
「いや、、、やっぱりわかりません。」
出来の悪い僕はことごとく理解が及びませんでしたが、ほどなくして師が言っていたのが、現象学者メルロ=ポンティの説いた「間身体性(かんしんたいせい)」だと知りました。
※間身体性(intercorporeality)・・・自己と他者が互いの身体を知覚できる場面で顕在化するような相互的・循環的な関係性
※Tanaka, S. (2015)
最近になって、何を言おうとしていたのか少しわかった気がします(気づくの遅い…)
教育という言葉(もしくは行為)には「教える」「教わる」の二項関係が聳え立ちます。
しかし、教育をする側が常に「教える」立場にあるわけではなく、師が「背中が右手に触れている」と言ったように、循環的な関係性があることを理解していないと「教える」ってのは一生わからないよ、という意味だったのでは思います。
思い切り噛み砕くと、「常に相手の立場に立て」と言いたかったのだと思います。
僕のどこかに「教えてやっている」という驕りや昂りを感じたのかもしれません。
ところで話は変わりますが、先日、娘の書道の表彰式出席のため、とあるお寺に行ってきました。
(ちょっぴり自慢を挟んですんません)
お寺が主催の書道コンクールだけあり、表彰式の冒頭には「読経」がありました。
なんとなく「合掌」しながらお坊さんのお経を聞いた後、表彰式では折に触れて「拍手」をしました。
目的も動きも違いますが、「合掌」も「拍手」も、どちらも手を合わせています。
効率的に素早く「音」というアウトプットにつながる「拍手」と
じっくり時間をかけて「一体」を表現する「合掌」
それぞれに確からしさはあるのですが、じっくり時間をかけないと、お互いのもつ温かさや拍動などには気づくことができません。
「『教育』にはねぇ、とにかく時間がかかるんだよ。」
と付け足した師の言葉と共に、合わせた手の相互的・循環的な関係に思いを馳せた秋の日でした。
ありがとうございました。
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