親バカのろけブログですが、、次女と遊びに行った先での気づきです。
先日次女と森林公園という埼玉県の公園へ遊びに行きました。
自転車に乗ったり、アスレチックコーナーで遊んだりと、春の気持ちいい風に吹かれながら2人の時間を楽しんでいました。
さて、のろけはこれくらいにして、アスレチックコーナーでのひとこまです。
人気の遊具で列になって順番を待っていました。
5分くらい待ったでしょうか、いよいよ娘の順番になったとき、突如娘が
「やっぱ乗らない」
と言い始めるのです。
「なんで?」
と訊くと
「あの男の子に譲ってあげる」
のだと。
確かに、数分前から「並びたくない!!早く乗りたい!!」と泣き叫ぶ男の子と、その子を宥めるお母さんがいらっしゃいました。
お母さんは私から見ると立派な対応をされていました。毅然と「泣くなら乗らなくていい」「乗りたいなら並ぶ」と伝えていました。
火がついたように泣いていた子も徐々におとなしくなっていました。
ただ、次女はその子が「かわいそう」と思ったようで、少しでも早く乗せてあげようと思ったようなのです。
私は「優しい子に育ったな」と思いつつも少し悩みました。
娘の優しさを受け止めて、譲ってあげたならその男の子は報われるかもしれません。
娘も「譲ってあげられた」という心地よさが訪れるかもしれません。
一方で、その男の子は「我慢」と一生懸命戦いながら、少しずつおとなしくなっていました。
社会性をまさに身につけているようにも窺えました。
結局は「あの子も並ぶのが勉強。気にせず乗りんさい」と伝えました。
娘はちょっと安心したように笑顔でその遊具に乗りました。
落ち着いてから少しその出来事をふりかえっていました。
というのも、特別支援学校教員時代には、同じようなジレンマに何度も苛まれたからです。
手を貸すのは簡単だけど、手を貸すことでこの子の成長は止まるのでは。
社会性を身につける機会を奪ってしまうのでは。泣けば周りが助けてくれると誤学習するのでは。
いつも「支援」と「自立」の間を行ったり来たりしていました。
大人に対しても同じだと思います。あまりにも手を差し伸べすぎると、その方の成長の機会も、もっというと「自己決定」の機会をも奪うことにもなります。
今回の例は、たまたま出会った見ず知らずの男の子の話ですが、仕事を共にする相手であれば、その方の「意思」や「ありたい姿」がなんなのか、そしてこの場で手を差し伸べることは意味を成すのか。
教育や指導の場面でおいても時に立ち止まって考えることは、教える側の使命かなと感じた次第です。
それにしても、次女は優しいw
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