手前味噌ですが、我が娘も我が妻も、とても字が綺麗です。
今回はプライベートネタとして、娘たちの字を見ながら感じた「質と量」の関係について書きます。
大人の学びにおいても重要なエッセンスだと感じています。
書道王国「埼玉」
埼玉県はおそらく全国的にも珍しく、小中学校での書道への取り組みがとても盛んです。
これは広島市育ちの僕からすると、とても特異な取り組みに感じます。(埼玉から見たら他県が特異なのでしょうが、、)
春は硬筆、冬は毛筆(書き初め)と、学校で熱心に学習しています。
なぜ「盛んだなぁ」と思ったかと言うと、子供達の作品の審査が「県を上げて」だからです。
各校→地区展→県展といったように、県単位で作品の審査が行われ、最終的には「第1席」から「第5席」までが名前と共に表彰されるのです。
広島では校内で優秀な作品に賞状が与えられたくらいだったように記憶しています。(今は知りません)
我が家は妻が幼少期から習字教室に通っていたそうで、何段か忘れましたけど段位も保有しているようです。
その影響からか、娘2人も書道が大変好きなようです。特に強いたわけではないのですが、綺麗な字を書く喜びを感じているのです。
これは、我が子ながら非常に頼もしく羨ましい姿です。
私は字が得意ではなく、かといって特段汚いわけではないのですが、「そこそこ」でいいやと思ってしまうタチです。
小学校時代なんてひどいもので、担任の先生から「汚い!書き直し!」と何度言われたことか。それが悔しくて、独学で字を綺麗に書こうと努力した時期もあったほどですが、やはり独学は独学。身につけたのは「独特な字形」でした。。苦笑
では、何ヶ月もかけて娘たちがたどり着こうとしていた「高み」はなんだったのでしょうか。
そして、「独学」では辿り着けない「高み」には何が必要だったのでしょうか。
娘たちをリスペクトしつつ、大人の学びにも繋げるべく「質と量」という視点で述べていきます。
「量」が求められる所以と求められる資質
何事もそうですが、圧倒的なスキルを身につけるには圧倒的な練習「量」が基本になり、そこから他者との優位性を気づく「特長」に変化していきます。つまり、ベースには「有無を言わせない量稽古」があるわけです。
娘たちも、ひたすらに書いて書いて書きまくりました。しばらくはいつもより余計にゴミ袋を抱えてゴミ捨て場に行ってました。おそらく、1000枚以上は書いていたと思います。
この頃「タイパ」と言われるように、費用対効果、時間対効果を成果の指標として重視する風潮があります。「タイパ」の文脈においてひたすらに「量」にこだわる人たちは「非効率」以外のなにものでもないと思います。
しかし、私も空手の有段者ですので分かりますが、高いパフォーマンスを支えるのは、圧倒的な練習の「量」です。
これは2つの理由から言えます。
1つは、「効率対非効率」の比較は「非効率側」からしか見えないと思うからです。
短い時間に多くのことを成し遂げる「効率性のよさ」は、仕事でも勉強でも鮮やかな技術として賞賛されます。
しかしそれは、「非効率」な側に立った人間から見える景色であり、当の本人が非効率な環境にどっぷりと身を置くからこそ「効率性」に気づき、至る努力をし、獲得するものだと思うのです。
もう1つは、「心が鍛えられる」からです。量をこなすには「根気」が必要です。そしてその根気も、ただただ機械的に量をこなすといったネガティブな意味だけではなく、希望に満ちた、喜びに満ちた未来に一歩一歩近づいていると言うポジティブな意味も含みます。
つまり「心が鍛えられる」というのは、過酷な環境下でも生きていけるようなスパルタ的な鍛えられ方だけではなく「今の努力は、未来につながる」という希望や楽観を得ると言う意味でも「鍛えられる」はずなのです。
娘たちは「何枚書く」という目標数値は掲げていなかったですが、書いて書いて書きまくる「数」が、目標の賞に一歩一歩近づく「唯一の近道」であることを感じていたようです。
これは何に取り組むのでも「何かにつながる。そしてそれは、明るい未来のはず」と根拠なく信じてモチベートできる強い心を育てるのです。
以上の2つから、「量」がまずは大切だと考えます。
「質」を高めるには、、、「察する」
一方、質はどうでしょうか。割と現代のビジネスシーンにおいては「質」重視で「量」な二の次といった見られ方をします。
もちろん「頑張りました!でもダメでした!」という仕事の仕方では話になりませんし、勉強もスポーツも上達しません。ある程度の「質」にこだわるのは当然です。
ただ、質=成果という単純なものではないでしょう。
質×量×運×信頼×外部環境×人脈×・・・・=成果
といった具合に成果に向けてはさまざまな変数が含まれています。ただ、質と量を増やすことで、今の努力を成果に繋げる確度を高めることはできるのです。
そして「質」にはただがむしゃらになる「量」とは明らかに異なる条件を含んでいます。
それは「フィードバック」が必要なことです。
「量」でいうと、時間、数など「定量化」できるものですが、「質」は目標値・見本と比較してどうかという「省察」「フィードバック」により「質の高低」が定められるのです。
「量」を求めるのがアクセルだとしたら、「質」を求めるにはブレーキ、いや、降車後の「ふりかえり」かもしれません。
性質自体も、高め方のそれも、両者は全く異なるのです。
ここで、「質」を高めるには他者からも「フィードバック」が必要と書きましたが、その上で重要なのが「謙虚に受け入れること」「判断すること」です。
「謙虚に受け入れる」とは、フィードバックをしてくれる人の言葉を、まずは謙虚に、素直に受け入れることです。
仕事ですら、他人にフィードバックするのは実は負担感が大きいです。めんどくさくもあります。ほっときたいのが人の本音ではないでしょうか。
そこをあえて、自分のために時間も労力も割いて「フィードバック」してくれるのですから、あれやこれやの言い訳はさておき、まずは謙虚に受け入れることです。
そうしないと「お前には2度と物は言わない」と言われると、「質」を高める貴重な手段をみすみす失うことになります。
もう1つは「判断する」ことです。フィードバックはありがたいながらも、あくまで「その人の視点」ということは忘れないことです。
新人さんとかキャリアが浅いうちは、全て受け入れて自分のものにする必要がありますが、ある程度の経験を積み、何が良くて何がダメかの分別がつくようになったら「判断して必要なものを取り込む」プロセスが大切です。
守破離という言葉がありますがこれは「破」に当たるかなと思います。
一見、「謙虚に受け入れる」とは相反すると思われるかもですが、受け入れてから判断するのと、受け入れる前から判断(拒絶)するのとでは、質を高める上では全く異なります。
娘たちも、時折自分の作品を壁に飾り、自己評価と妻の評価を織り交ぜながら「じっくりと反省する時間」を設けていました。
細かな筆使いや線質などを観て長考するのです。その間、1枚も書けません。つまり、量にも成果にもつながらないのですが、この「察する時間」こそが、質を高める唯一の手段だと感じていたのです。
まとめ
娘の書道から大きく話を広げてしまいましたが、「道」においては量と質を高める必要があり、質を支えるのは量でありつつも、両者は全く違う視点で高めていかなければならないのです。
あまりに「質」を求めすぎても「質」は高まらないし、「質」が高まったなら「量」は必要ないというわけでもないのです。
ぜひ時に立ち止まって、今の仕事、練習の量と質について考えてみてください。
私はまだまだです。
コメント