とある会社で、障がい者雇用の支援をさせて頂いています。
障がいと向き合いながら働かれる方々の姿は、非常に尊いものがあります。一方で、障害を作り出している社会に対する気づきも、たくさん得られます。
10年前の僕は、まさかこんな仕事をしているとは想像すらできませんでした。
現在は企業さまに教育アドバイザリーなんかやってますが、元々は教員です。
≪まさかの特別支援学校着任≫
知的障害と肢体不自由の特別支援学校で、併せて9年間教員として勤めました。それ以前は小学校教諭でした。
大学・大学院でも特別支援教育は専門ではありませんでした。
そんな僕が、引っ越しを機に埼玉県の教員採用試験を受験し、合格後に着任したのが特別支援学校でした。
青天の霹靂でした。
なんせ、経験はおろか、免許もない学校(小学校教諭の免許があれば特別支援学校では勤めることができました。今はどうかな?)に着任するなんて、夢にも思ってもいなかったからです。
≪知的障害の子たちと出会う≫
最初に着任したのは、知的障害の特別支援学校。
おっかなびっくりというか、どうやって関わればいいのか、まっっったく分かりませんでした。
話しかけても無視。遊んでいたら急に怒る。
噛みつかれる、泣き叫ばれるなんてのは毎日の恒例でした。
ただ、時折見せる子供たちのとびきりの笑顔に救われながら、手探りで仕事していたのを覚えています。
半年くらい経ったころ、あることに気づきました。
感情の表出方法は我々と違えど、行動や言動には個性があり、なおかつ、背景があると言うことでした。
別の言い方をすると、「◯◯障害」とか「◯◯症」といった診断名で括ってしまっては、その子が見えなくなるということです。
これは我々が血液型でパーソナリティを規定されるようなもんです。
「A型か〜、神経質でストレス溜めやすいね」
とこれまで何万回言われてきました(ちょっと当たってるのが悔しい…)が、世の中の人間を4つに分類できるわけないです。
障がい名ももちろん沢山あるし、それぞれの組み合わせによって様々な特性が現れることもあります。
ただ、障がい者の前、その子たちは人です。
心があり、体があります。
目で見る、耳で聴く、鼻で嗅ぐ、手で触る。
感じ方や表し方は、我々からすると特殊な面はあれど、お腹が減れば食べるし、腹が立てば怒るし、嬉しければ笑う。
そこには人間として生きる1人の姿がありました。
≪対等に接する≫
僕はそこから、「障がい者」という見方をなるべくしないようにしています。
これは、彼らの困難さから目を瞑るという意味では全くないです。
困っていれば支援するのは、我々の役割です。
ただ、障がい者として接するのではなく、
対等な人間として関わるということです。
今となっては当たり前ですが、日々障がいを持つ子と接していると分からなくなることでもありました。
続く…
コメント