「教育」とは、改めて何か考える

教育現場でどっぷりと働いてきましたし、現在も「企業内人材育成」という教育に関わらせて頂いていますので「教育」について深く考えることも実践することもしてきました。

がしかし、ガシカシ、時折「自分の『教育観』」について考えて分からなくなることもあります。

そしてわからなくなるときは、原理原則・基礎基本に立ち返るのが解決の一歩だと思っています。

今回は「教育」という大きすぎるテーマを、マクロ的な視点で深めようと思います。

目次

教育の語源

いきなり堅い表現から迫りますが、教育基本法の第一条では教育の目的に関して示されています

第1条(教育の目的) 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

文部科学省

つまり教育とは

・人格の完成

を目指し、国家や社会を作る人や、人を敬い、よく働き、心身ともに健康な人を育てることにあるとわかります。

これは個が所属するマクロな組織にフォーカスすることで、表現を合理的に読み替えることもできます。例えば企業であれば、組織や仲間を敬い、健康に働く人を育てることが「企業内人材育成」ともとれるのです。

家族・スポーツチームなど、当てはめるコミュニティによって読み替え方は変わりますが、本質は同じで、人を敬い、帰属意識と貢献意欲を高め、健康になるよう指南するのが「教育」です。

ではもう少し違う角度で語源を探ります。

教育は英語で「education」ですが、この語源はラテン語の「ducere」だそうです。

ducereには「連れ出す、外に導き出す」という意味があるようで、転じて教育とは「人の持つ緒能力を引き出すこと」という定義があります。私はこれが非常にしっくりきます。

ここでは「人の持つ能力を引き出すのが教育」という定義で話を進めます。

人の能力を引き出すとは

「教育」と聞くと、多くの人の表象に「学校教育」が在るでしょう。

ちなみに余談ですが、私は教員時代折に触れて
「子供を育てる教育には3つあります。家庭教育、地域(社会)教育、学校教育です。ぜひ、学校任せにしすぎず、ぜひ皆で協力して育てていきましょう」
と保護者に言っていました。生意気な若手教員でしたw

一般的な学校の教授スタイルを思い浮かべていただくと、「教える」ことが仕事の教師と「習う」ことが仕事の児童生徒という2つの役割が存在しています。

教育をする側、受ける側という構図が「教育とは、教え、教わること」という結論として強調させているように思います。

つまり、「知」のギャップを埋める作業が教育というイメージです。

一方で今回の主軸として掲げている「人の持つ能力を引き出すのが教育」という定義に立ち返るとどうでしょうか。

そこには教える側、教わる側の経験や知識の差を埋めるというよりも、

引き出す側、導き出される側というで「知の交換」が行われているように思います。

知の交換に必要なフロー

教える・教わるの関係ではなく、導き出す・出される関係であれば、導き出す側も新たな「知」に出会うことになります。

教育とは新たな知を生み出す場と考えると、教室や職場で行われる一方向的な「指導」の見方を変えざるを得なくなります。

では一体、これまでのイメージをドラスティックに転換するために必要なフローとはなんでしょうか。

それが「対話」ではないかと私は考えます。

教育者の大村はまさんは著書「日本の教師に伝えたいこと」の中でこう述べています

なぜか授業の実際というところになると、すぐれた指導案、すばらしい勉強を思わせる指導案が生きてこないのです。その原因はいろいろあると考えていますが、そのひとつに、「話す」ことや「話し合う」ことへお取り組みの弱さがあるのではないかと思います。

「日本の教師に伝えたいこと」p.77

自分が言いたいことだけは言うけれど、人の持っているものを、ことばによって引き出せないといののでは困ります。

p.79

その上で大村先生は

今、もうのど元まで出ている気持ちがちょっと言えなくて、というときに、私たち教師が、うまいうまくないではなく、指導者であり年上でもあるのですから、わかる子どもの気持ち、それを「こうかな」というふうに、ことばにしてみせる。押しつけではありません。教え込むのでもない。その子の個性が傷つかないような、具体的なことばで、行ってみる。パッとことばが出てくると、子どもは飛びつくように「そうだ」と思うでしょう。(中略)こうして、ことばが心から心へ伝わっていきます。

p.90

また、立教大学の中原淳先生は著書「話し合いの作法」の中で

日本のビジネスパーソンも学生も皆、「話し合いが苦手」

と断じています。

私たち教育者が自戒の念として心に刻むべきはこういった言霊でしょう。

知の交換に必要なのは「対話」であり、対話により「心と心が伝わる」のである一方で、そもそも私たちは「対話が苦手」なのです。

一方的な知識や価値観の押し付け、手順の伝達が「教育的」だと感じている人は一旦立ち止まる必要があります。

そこに「知の交換」が行われているかどうか、これからの「個の時代」には必要な教育へのテーゼだと感じているところです。

終わりに

18年間の教職歴と現在も人材開発に携わる立場で改めて「教育」を考えてみました。

もちろん、「教育」にはそのほかの意味も含まれる非常に広い概念を示すものなので、今回述べたことが全てではありません。

しかしながら、私自身が目指しているところの「眠れる獅子を呼び覚ます」と言う理念は今回の「教育とは知の交換」という勝手な定義がしっくりきます。

私も対話を重ねて、相手の何かを引き出せるように、まずか反抗的な娘と心新たに接してみようと感じましたw

ではまた。

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