【メルマガを発行しました】20251128号

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【デフリンピック観戦で感じた、言葉の曖昧さの壁】
11月15日から26日までの12日間、「東京2025デフリンピック」が開催されました。
1924年に第1回大会がパリで開催されてから、100周年大会となった今大会は、初の日本開催でした。
英語で「耳がきこえない」を意味するデフと、オリンピックを掛け合わせた「デフリンピック」は、きこえない・きこえにくい人のためのオリンピックです。
陸上、バスケット、水泳といったお馴染みの競技から、オリエンテーリングやボウリングなど、デフリンピック独自の競技もあります。
私は、足立区綾瀬の東京武道館で行われた、空手競技を観戦してきました。
綾瀬駅から会場の東京武道館に向かう道は、デフリンピック一色。
会場内も入場制限がかかるほど、観客で賑わっていました。
「ゆっくり座って観よう」との目論見は大外れで、立ち見の観戦となりましたが、幼少期から空手を嗜んできた私としては、盛り上がる会場を見てとても嬉しくなりました。
空手には型と組手があり、私が見たのは組手の部でした。
組手は実際に相手と戦います。突きや蹴りを当て合います。
型とは違う緊張や恐怖があります。
選手たちの戦いを見ながら、ふと、「きこえない・きこえにくい中で、どうやって技術を高め、恐怖と戦ってきたんだろう」と思いました。
空手(に限らずでしょうが)は、稽古では相手の動きを想定しながら、技の意味を理解していきます。
ただ、同じ相手でもシチュエーションによって動きが変わるため、「この場合はこう、別の場合はこう」といった大まかな括りでしか想定できません。
指導も「この場合は、こう動いた方がいいだろう」とか「ここでは、こう動くべき」といったような、「動く」と「動かない」の間になるグラデーションを表現することになります。
このグラデーションを表す言葉は、「モダリティ表現」といわれるもので「肯定と否定の間の意味領域を担う言語資源」(早川,2012)と定義されています。
モダリティ表現は、言葉の送り手と受け手で捉え方に微妙な差異があります。
例えば「あの人は、もしかすると来るかもしれない」という場合、「来る」の可能性は、送り手と受け手によって推測値が違うはずです。
「あの人」が来なかった場合、「来るって言ったじゃん!」「来るとは言ってない!来るかもって言っただけ!」なんて行き違いも生じます。
この行き違いを乗り越えながら、繊細だったり大胆だったりする技の数々を身につけ、恐怖と向き合いながら戦う選手たちの姿に、グッときました。
以前、きこえない人が「(通訳の人に)言葉を要約されすぎると、自分の考えを深める余地がなくなる。」「何を求めているか支援者にしっかりと聞いてほしい」という話を伺ったことがあります。
また、手話通訳の方からは「通訳がちゃんと言葉を受け止めて、話の続きを言わせてくれる人なのかどうかを、きこえない人はすごく見ている」と言われていることも伺いました。
曖昧な領域にある言葉の捉え方が、きこえない人の理解だけでなく心の動きにも影響があることがよく分かります。
障害者雇用の現場でも、聴覚障害の方から「コミュニケーションが難しい」「孤独を感じることがある」といった声を伺うことがあります。
企業によって、支援ツールを積極的に導入したり、有志を募って手話勉強会を開催したりなどされていて、きこえない人からは「会社が私たちの障害に寄り添ってくれているようで、嬉しい」というポジティブな声が多くあります。
この「嬉しい」という感情は、曖昧な領域にある言葉の意味が伝わり、よりスムーズなコミュニケーションに繋がるかもしれないという、期待なのかもしれません。
またこういった、きこえない人の感情に触れることは、より具体的・断定的に物事を伝えるコミュニケーションのきっかけになるのかもしれません。
それはきっと、きこえない人にはもちろん、きこえる人にとって分かりやすいコミュニケーションのはずです。
障害者雇用の課題と真摯に向き合うことは、組織の生産性向上にも繋がるんだなと感じた次第です。
さて今回は、デフリンピックの空手観戦から考えたことについてツラツラと書かせてもらいました。
皆さんの何かしらの気づきにつながっていると幸いです!
ではまた!
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