メルマガを発行しました/240924

不定期のメルマガを、一粒万倍日の本日、発行しました。

導入と本論の部分だけご紹介します。

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本題に入る前に、近況報告を1つさせてください。

先月、産業医の友人と一緒に「合理的配慮」について考えるオンラインセミナーを行いました。

(ご参加くださった皆様、ありがとうございました!)

前半部分だけではありますが、録画しましたのでお時間ある時にご覧いただけると嬉しいです!

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【支援を考える】

(ちょっと前にも同じようなテーマで記事を書いたような気もしますが、改めて…)

先日、ある会社さんの障害者雇用担当の方とお話をさせてもらいました。

志も熱も高く、行動量も凄まじいその方の”現場での汗と涙の物語”はいつも、勉強と刺激になります。

そんな中で「支援」という言葉を、私もその方も何度となく用いていました。

そこで今回は、「支援」の意味や目的について(このメルマガをお読みくださっている方々は釈迦に説法ですが)、改めて考えてみたいと思います。

私がかつて教鞭を執っていた特別支援学校では、学校の看板に小さく”special support school”と書いてありました。めっちゃそのままの英訳ですね。笑

多くの方が「支援」と聞いてイメージするのはまさに、「サポート」であって、「支援を要する人に、手を差し伸べる」といった場面が想起されるのかなと思います。

「支援」を考える際、1995年に支援基礎論研究会というところが示した定義、

すなわち

”他者の意図をもった行為に対する働きかけであり、その意図を理解し、その行為の質の改善、維持あるいは行為の達成をめざすもの”

が分かりやすいです。

この定義にはいくつか大切なポイントがありますが、個人的には特に「その意図を理解し」というとこかなぁと思います。

なぜか。

自分自身の実践を振り返ると、「意図を理解していないこと」が多かったからです。

ではなぜ、「意図を理解していない」支援になってしまうか。

それは「支援しようとしすぎるから」だったと思います。

「支援」には、必ず支援の対象となる人(ここでは「被支援者」とします)がいます。

被支援者が行なっている「行為」に対する働きかけが「支援」になります。そして「行為」には被支援者なりの「意図」が存在しています。

一方、支援者が被支援者よりも「多くの経験」「多くの知識」を保有している場合も多く(いや、ほとんどがそう)、

「ああきっと、このままでは上手くいかないな」

と「行為」の結果を察してしまい、本人の「意図」を理解せず、あるいは理解した上で”見て見ぬふり”をし、手を差し伸べてしまうことがあるのです。

支援者はよかれと思っている「支援」なのですが、これだと「行為」の主体が被支援者になりかわってしまいます。

「支援」の巧拙は知識に依存ずることはまぎれもない事実ですが、その知識が、時に「支援」の邪魔をすることがあるなと、自分を思い返しても感じます。

また、支援者は兎角、「自分の支援は当然に受け入れてもらえる」という前提(幻?)を抱きがちです。

「あなたの手伝いをしているんだから、素直に受け入れるのが筋でしょ」

といった思いです。

しかしながら、相手が自分の「支援」を受け入れるかどうかは、お互いの信頼関係が基盤となります。

信頼している人からの「支援」は、題なく受け入れられるでしょうが、その反対もあり得るということです。

ちなみに「意図」を理解するとは、本人のやりたいようにやらせるという、放任とは違います。

本人の「意図」が、その場(例えば他者との協働)にふさわしいものでない場合は、「意図」の置き方も「支援」の対象となるでしょう。つまりは、「行為」の目的や手段の決定を「支援」し、その場面における正しい位置に「意図」をおくように働きかけるとことだと思います。

そして「支援」のゴールは「支援」を要さなくなること。つまり「自立」です。

「支援」を行う中で、支援者と被支援者が「支援」の波に飲まれて共依存に陥ってしまうことはままあります。

支援者は「私がいないとこの人はダメだ」と思ってしまい、被支援者も「この人がいないと私はダメになる」と思ってしまうのです。

それは大いなる自立の妨げであり、ものすごく嫌な言い方かもしれませんが「支援の失敗」になりかねません。

先月閉幕したパリパラリンピックの種目に、視覚障害者のマラソン(ブラインドマラソン)がありました。

この種目の伴走者(支援者)ルールとして、「助力を与えてはいけない。前に出て引っ張ったり、後ろから押したりは禁止」と言うものがあります。

「走る」のは視覚障害の本人であり、伴走者はあくまで「見えない」という障害に対する「支援」が役割であり、コースやタイムを本人に伝え、やや引いた位置で一緒に走るのです。

そしてもう1つ特徴的なルールがあります。

「フィニッシュ地点では、視覚障害ランナーが先にフィニッシュする」

です。

自分の支援を思い返すと、支援者である私が「先にフィニッシュ」した場面が何度もあったなあと反省した次第です。

ブラインドマラソンには、支援のあるべき姿が存在しているように思えました。

とはいえ、支援者の「わからないことが多い」「どうすればいいの?」という悩みや葛藤もとってもよく分かります。

私もそうでした。

微力ながらご支援させて頂いているところですが、悩みや葛藤を抱くことは「支援者として成長痛」だとも思いますので、

お互いに成長痛を楽しみ(?)ながら精進していきましょう!

今回は【支援について考える】をテーマに書きました。

皆さんの何かしらの気づきになっていると幸いです。

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